GWを過ごしてみてわかったのは、休めば自動的に元気になれるほど、人間は単純ではないのかもしれない、ということだった。
GWというものは、始まる前はずいぶん希望に満ちて見える。
何連休だとか、どこへ行くだとか、何をしようだとか、世の中はそういう話で少し浮き足立つ。こちらもつられて、「今年のGWは少しくらい回復できるかもしれない」などと思う。だが、実際に始まってみると、案外そうでもない。
ぼくの今年のGWも、過ぎてみればあっという間だった。
実家に帰って、少しごろごろして、PCを開いて、犬をなでて、それで終わった。こう書くと、いかにも穏やかな休日に見える。実際、大きな事件があったわけではない。だが、GWが終わってみると、ぼくはあまり回復していなかった。これが、なんとも不思議である。
休みなのに、思ったほど元気にならない
休みというのは、本来、人を元気にするためにあるような顔をしている。
平日で削れた心身を回復させ、また月曜からなんとかやっていくための仕組み。理屈としてはたいへんわかりやすい。ところが現実のぼくは、ちゃんと休んだはずなのに、終わってみれば何一つすっきりしていない。
今年のGWは、CodeXまわりで何かを触っていた時間もあった。とはいえ、頑張っていたのは主にCodeXのほうで、ぼくはといえば、PCの前で「Yes」とか「うーん」とか言いながら、もごもごしていただけである。これを充実と呼ぶには、少しこちらの良心が痛む。
それでも、何もしなかったわけではない。年老いた母と父と、一緒にご飯を食べた。
実家の食卓には、時間が流れている
三人で食卓を囲んでいると、不思議なもので、話題はだいたい似たようなところに落ち着く。
昔の思い出だったり、近所の人のちょっとしたゴシップだったり、「あの人の家の息子さんがどうした」だの、「あそこの奥さんが最近どうだ」だの、実家というのはなぜああも地域ニュースが豊富なのだろうかと思う。ぼくは「はあ、そうなんだ」と相槌を打ちながら、ご飯を食べる。
別に深い感想があるわけではない。ただ、そういう話を聞きながら白いご飯を食べていると、自分がまだこの家の子どもであるような気もするし、もう全然そんな年齢ではないような気もする。
それから母と父は、そろって腰が痛いと言った。
年々ひどくなっている、前より長く立つとつらい、そんな話を特に大げさでもなくする。その言い方が、かえって妙に現実的でいやだった。ああ、そうか、と思う。年月はちゃんと経っているのだ。
自分の親というのは、頭では年を取るとわかっていても、実物を前にすると少し動揺する。若いころの記憶があるぶん、「こんなものだろう」と思っていた輪郭が、じわじわ変わっていくのを見せられると、こちらの時間感覚まで少しおかしくなる。
ぼくはもう30代も半ばで、まあ立派な大人のはずなのだが、親の老いを前にすると、急に心の置き場所がわからなくなる。
少し焦燥感が出る。何に焦っているのか、うまく説明はできない。親に残された時間なのか、自分の人生なのか、その両方なのかもしれない。たぶんこういうのは、ちゃんと言葉にできるうちはまだ余裕があるのだろう。ぼくの焦りはもう少しぼんやりしていて、食後に湯のみを持ったまま、なんとなく胸のあたりに沈殿しているような感じだった。
回復しないのに、時間だけは進んでいく
そのくせ、ぼく自身はそこまで何かを進められていない。
将来のことを考えれば、恋愛だってしたほうがいいのかもしれないし、結婚するならもう少し真面目に動いたほうがいいのかもしれない。だが、そういうことに向かっていく気力が、どうにも足りない。ただでさえ日々で削れているのに、人生の大きな課題にまで手を伸ばす元気がないのである。
犬はそんな人間の事情とは無関係に、相変わらず嬉しそうだった。それはそれでありがたい。ありがたいが、犬の無邪気さだけで人間の焦りが全部なんとかなるほど、こちらの構造は単純ではない。
結局、GWが終わってみても、疲れは思ったほど取れていなかった。脳がしっかり休まった感じもしない。心が晴れたとも言いがたい。けれど、完全に空っぽの休みだったかというと、それも違う気がする。
年老いた母と父とご飯を食べた。昔の話や近所の話を聞きながら、同じ食卓に座った。二人の腰痛に、年月の経過を見た。犬の嬉しそうな顔を見て、少しだけ気分がゆるんだ。
回復はしなかった。でも、何もなかったわけでもない。
たぶん、こういう休みもある
たぶんぼくは、休日があれば自動的に元気になるタイプではないのだろう。ただ寝て、ただ休んで、それで全部が整うような単純な仕組みではできていない。むしろ、休みの時間があるからこそ、自分の疲れや、親の老いや、これからのことが、妙にはっきり見えてしまう。
それはあまり嬉しいことではない。もっと気楽に連休を終えられたらよかったと思う。だが、今年のGWはそういう休みではなかった。
何も解決しなかったかわりに、いろんなことが少しずつ見えた。親は確実に年を取り、ぼくもまた、先延ばしにしていられる年齢ではなくなっている。それなのに、肝心の自分はまだ、うまく回復する方法すらわかっていない。
そう考えると、今年のGWは「いい休み」ではなかったのかもしれない。けれど、「何も残らない休み」でもなかった。
疲れは取れなかった。脳もすっきりしなかった。人生の答えなんてもちろん出ていない。それでも、実家の食卓で相槌を打ちながら、親の老いを見て、犬の無邪気さに少しだけ救われて、ぼくはぼくなりに時間の流れを受け取っていたのだと思う。
休んだのに元気になれなかった、というだけの話に見えて、その実、あれは「自分の今」を静かに突きつけられた休みだったのかもしれない。
そう思うと、少しだけ苦いけれど、あのGWにも意味はあったのだろう。


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